小さな祠
帰りしな、道沿いに小さい社と祠があった。
どんな社なのかはちょっと分からなかったが、祠はちょっと眺めてみた。
どうやら根古家の女人講みたいだ。社と祠がこの位置関係ってことは、以前社は女人禁制だったんだろうか。女人講って既婚女性の講ってことだから関係ないかもしれないけど。
根古家はどうやらこのあたりの地名のようだ。地形図でこのあたりの小字は上根古屋というようだから、おそらく字が違うだけだろう。
いつできた?
安政二
とある。安政年間(1854年〜1859年)かぁー!と驚いた。
安政2年なのか「安政に○○」なのか定かじゃないから安政2年(1855年)と断定できないけど、いづれにしろ150年ほど前の代物なのか。よく残ってるなあ。
と、ふと祠の脇を見てみると、
ん、違うのが書いてある。
○○十三庚年十一月吉日
と書いてある。安政は7年までしか無い。十三年というのは明らかにおかしい。
ってことは、別々の時期に置かれたと推察できる。
じゃあ、いつ?
まず、推測として、あんな小さい碑のそばに立派な祠を置くというのは、順序としておかしい。
祠が置かれてから、その祠に対する信心を表すために碑が置かれたというほうがスムーズに理解できる。
というわけで、13年以上ある年号を安政から遡っていくと、直近が天保(1830年〜)だ。
だけど、天保13年は壬寅(みずのえ-とら)。十干が違う。合わない。
次は文政。ちょうど13年ある。
で、文政13年(1842年)はちょうど庚寅。これ以外に庚が該当するとなると、
- 永禄13年(1570年)[庚午]
- 元禄13年(1700年)[庚辰]
- 文政13年(1842年)[庚寅]
- 明治13年(1880年)[庚辰]
これだけ。とりあえず永禄年間は無かろうw
元禄13年も怪しいけど、劣化の仕方がさして変わりないというのがうーん……
じゃ、内容から……といっても、「女人講中」は下総国でも盛んだったようで、江戸時代中葉には既に子安塔が建立されている。時期としては元禄でも怪しくない。
なーんか決め手ありませんかね?これ。